直撃!フロントランナー
同志社大学「同志社ミツバチラボ」のメンバー(当時)が、ミツバチプロジェクトのフロントランナーにインタビューしたものをまとめています。
長者町ハニカム計画
佐藤敦さん
第3回は、現在ミツバチプロジェクト・ジャパン理事の佐藤敦さんです。
佐藤さんは取材当時、名古屋長者町繊維街のビルの屋上で、みつばちを育てることによって、長者町のお店や人、緑をつないでいくまちおこしプロジェクト「長者町ハニカム計画」を主導されていました。現在は、NPO 法人マルハチ・プロジェクトの理事をされています。
佐藤さんが養蜂を始められたきっかけはなんでしょうか?
酔っ払いの一言です!
長者町のバーで地域のまちづくりの方々と飲んでいた時に、偶然カウンターにいた酔っ払い(もちろん知り合いのご近所さんです…)から「まちづくりをやってるならミツバチぐらい飼えよ!」と言われたのがきっかけです。
面白いですね。どんな状況だったのでしょうか?
お酒の勢いが増しました!
思いもよらぬ一言に食いついてしまった僕はカウンターに移動しましたが、その方は、銀座でミツバチを飼っている話をどこかで聞かれた帰りだったらしく「銀座のビルの屋上でミツバチを飼ってる、獲れたはちみつを使ったハニーハイボールなどで地域で盛り上げてるんだぞ。銀座知らんやつが世の中におるか。長者町なんてまだまだなんだから、長者町こそミツバチ飼えよ」というわけです。
それでもミツバチを飼おうと決意したのはなぜですか。
8月8日に生まれたからです!
私がシャッター街(長者町繊維街)に越してきて起業したのが2007年です。その年の11月に繊維組合主催のお祭りがあり、そのお手伝いを始めました。お祭りのチラシ広告の協賛を集めるために、飲食店を回ったのですが、どの店からも不満や文句を言われるなどびっくりしたものです。その頃の長者町は、繊維組合と飲食店のつながりが今ほど深くありませんでした。繊維街で広がりを見せつつある飲食店との溝さえ感じていたそんなときに、酔っ払いの方の「蜂の話」を聞いて、8月8日に生まれた僕が蜂を育て、「はちみつを使って飲食店とまちを繋ごう!」と思ったのがきっかけです。
養蜂で街を繋ごうと思われたということでしょうか?
2008年当時の私は本気でしたね。
何万匹もの小さなミツバチが、目にも見えない小さな花粉や花の蜜を集めてきます。連携し協力しあった結果、出来上がりるのが『ハチミツ』ですよね。我々人間も、お店や会社、団体や個人が繋がりを持って生きているんです。長者町界隈の昼間人口は2万人を超えると言われていますが、夜間は300~400 人とかそういうレベルです。住むまちではなく働くまちといったこともあり、薄れがちな都会のコミュニティが故にお祭りなどの維持や継続は大変ですが、ミツバチのつながりの先にはハチミツができるけれども、ヒト・モノ・コトがつながった先には、『ハチミツ以上に輝かしい何か!』が地域の宝に…」ってまちづくりメンバーや地域の方々に話してましたね。養蜂が重要なコミュニケーションツールの一つに思えました。
それから長者町でミツバチを飼うまでどのように進んでいったのですか?
丁稚奉公しました。
先ずは、誰かが刺されたりして苦情にならないか?と町中に蜂飼い宣言を出し様子を見ながら、いろいろと調べてみました。でも知識より経験が欲しかったので、本を読みながらも養蜂場を探しましたね。とは言え最初は名古屋で蜂を飼っている人がいないと思っていたので、「すぐに銀座に行こう」と計画していました。ちょうどのそんな時に名古屋の覚王山のビルの上で、養蜂されてらっしゃる方がいることを新聞で知り、「メルクル」さんという、チーズとはちみつのお店に行ってみました。“覚王山はちみつ”を買いつつ、レジをしてもらいながら「長者町の屋上でもミツバチを飼いたいと思っています。僕は8 月8 日生まれだからまちの為に蜂を飼いたいので修行させてもらえませんか?」とハチミツショップの店員さんに声をかけました。すると「そういったことはご案内していませんが、佐藤さんは、面白そうな方なのでオーナーに聞いてみます」ってな感じで後日、お店のオーナーさんから連絡をいただきました。それから1年間ぐらいお手伝いをさせていただき、長者町にも巣箱を4箱用意していただいたのが2010年の春のことです。
長者町の皆さんと一緒に始められたのでしょうか?
恐怖で誰も近寄らず…
修行したのは私だけですので、まずは自分でやってみました。2020年には芋も植え始めましたが、屋上緑化や地域緑化はなかなか続かないですよね。でも芋なら屋上緑化の一つとしても面白いですし、どこのビルの屋上でも、どなたでも出来ますからね。飲食店さんを含めたまちの皆さんに育てていただいたさつまいもが、長者町焼酎「芋人」といったお酒になり、居酒屋さんに仕入れてもらって、「僕らが屋上で育てたさつまいもが…」といった感じでお客様にも楽しんでもらうということを予定しています。同じように、2010 年に長者町のビルの屋上で蜂蜜を始めた時も、近所の飲食店さんやパン屋さん、喫茶店、いろんな飲み屋さんは興味を持ってくれて、お寿司屋さんも「アナゴの甘ダレの照りでも蜂蜜は使えるんだ」と言われて可能性を感じていました。屋上養蜂の部分は多少の専門性が必要となるので、私やまちのボランティア仲間が担ってくれていますが、その先をまちの皆さんと一緒に楽しみたいんです!
つながりの効果は現れましたか?
効果抜群!
すぐにいろんな飲食店さんからの好反応があり、各店舗で考案された長者町はちみつを使用したメニューが話題となり嬉しかったです。そんな各飲食店さんが積極的にまちのお祭りにも参加してくれるようになったのも更なる喜びでしたね。年に一度の最大行事でもある「長者町えびす祭り」では外部からのキッチンカーを招いてましたが、今では街の飲食店さんが食の中心を担ってくれています!当時は「まちをつなぐ」って楽しい!と思えて仕方ありませんでした。
そのころは、まだ都市養蜂も珍しかったので、テレビや新聞、雑誌、各誌各局各番組で報道もされ、出演もさせていただきました。それが長者町の露出にもなりましたし、視聴者の方のまちへの反応も早かったです。
マスコミの効果もあったんですね?
取材対応ばかりで大変でしたが…
報道各局は屋上養蜂や長者町はちみつにスポットを当てたがるのですが、私は「飲食店のハチミツメニューを紹介してほしい」と頼みました。すると飲食店はすごく喜んでくれて、「広告費もかけてないのに、ハチミツがテレビ局を運んで来てくれる!」と言われたこともありました。もちろん繊維街と言うことで和雑貨屋さんや浴衣を売っているお店にもハチミツの小瓶が並んでいたこともあり、お店や、まちの宣伝にもなりました。初年度から、みなさんには応援していただき面白かったです。
まちづくりはもともと興味があったのですか?
いいえ。全く。
私はもともとまちづくりをするために長者町に来たわけではないです。もうお亡くなりになったのですが、まちづくりに熱心な先生とお会いしたのがコトの始まりでした。私の会社が3 階で、その方の事務所が2階で、そのビルは古くて2階のフロアを抜けないと3 階に上がれなくて、私は2階を通るたびに、その先生や学生さんから熱心なまちづくりの話をいつも聞かせていただいておりました。これもご縁と言うか、偶然というか必然というか、だから、たまたま、まちづくりに興味が湧いてきたという感じです。そのビルの1階はパン屋さんですが、同じくハチミツで巻き込んじゃいましたね。長者町ハチミツを使ったパンも話題で即完売でしたよ!バーやフランス料理店、老舗の料亭さんまで繋がるきっかけになれたので思いがけぬ方向からのまちづくりになったのでは…との後付けです。
養蜂は商店街の活性化にも役立ちましたか?
まちの担い手育ては重要!
長者町繊維街は問屋街という歴史があり、皆さんの思うところの商店街とは事情が違います。「一般消費者お断り」が当たり前だった時代がありますが、賑やかさの中身が違っていました。時代とともにシャッターが目立つように、繁華街がすぐ隣にありながら立地や利便性から考えても昭和の雰囲気が残る不思議なまちへと変わりつつありました。
養蜂を始めた2010年は、愛知県で初めてトリエンナーレが開催された年でもあります。国際芸術祭として県や名古屋市の美術館を飛び出し、まちなか会場を展開しているのですが、その第1回目の会場に指定されたのが長者町でした。シャッター街でしたからね。町中が展示場所の可能性を秘めていたんです。
アート作品の中には、ミツバチが描かれている作品もありましたよ!すでに長者町の一部としてアーティストさん達に認識されていたのも嬉しいかったですね。
また名古屋ではちょうどCOP10(生物多様性保全に関する国際会議)が開催された年でもあり、みつばちの減少が世界的にも話題になってました。都会の屋上で養蜂?とばかりに、長者町を知るきっかけの一つにもなっていたので、長者町を養蜂とともにいろいろな方向から皆さんに知ってもらうことができ良かったと思います。まちで起こるいろいろなコトに皆で対応する事で繋がるコミュニティや、まちの担い手を育てる意味でも貢献できたと思っています。